瑪麗醫院(クイーンメリー病院) 薄扶林 その1

2001年~2016年まで香港で暮らした。

香港島の薄扶林にある瑪麗醫院(クイーンメリー病院)には、2度ほど縁があった。

日本にいる方はご存じではないかもしれないが、世界の医療事情はとても悪い。

香港では企業に勤めていれば医療保険は入ってくれるところが多いが、それでもすべてをカバーするわけではない。

最新の医療設備がある私立病院の費用はカバーしないし、MRIなどの医療機器の使用も、基本的には自腹だ。

MRIは香港では大体日本円にして10万円前後、それも2008年の情報で、今はもっと値上がりしたと聞く。

入院となればそれだけで100万円超えは普通だ。

海外で病気にはなりたくないものだと思うが、そんなことも言っていられない。

私立病院にかかる以外に、香港では政府の官立病院がいくつかある。

クイーンメリーはその一つで、私が入院して外科手術を受けたときには、一週間の入院と手術で自己負担は500ドル(約7000円)だけだった。

それとは別に、相方が2か月以上に渡って入院したこともあった。

その時のことを書いてみようと思う。


相方入院

2008年当時、相方と私はまだ付き合っているときだった。

結婚の話も出ていなかったように記憶している。

数日前から相方は体調の異変を訴え、「この辺りが痛い」と肋骨付近を押さえていた。

しばらくは湿布を貼って凌いでいたようだけど、そのうちに医者へ行き始めた。

相方の父は内科医で開業していたが、この案件では相方は別の医者へ行ったようだった。

すると、何やら検査が必要とのことで、精密検査をするべく手配をするということだった。

そんなある日のこと。

私はいつものように Club 71 で常連のサリーとお喋りをしていた。

そのときふと、虫が知らせた。

なぜはかわからないけど、胸騒ぎがしたのだ。

相方に電話をしなくてはならないような気がした。

そこで電話をしてみると、様子がおかしい。

私の問いかけに答えもせずに、聞こえてくるのは呼吸の音とうめき声だけ。

異変を感じた私は、すぐに Club 71 を後にして相方のアパートへ向かった。

Club 71 を後にする私に親友のサイモンが、

「いいか、何かあったらクイーンメリー病院へ行け。あそこが一番確実だ」

とアドバイスしてくれた。

その言葉を受け取り、タクシーへ飛び乗ってアパートへ向かった。


アパートへ着くと、相方は部屋の中で倒れていた。

ある程度予測はしていたものの、実際に目の当たりにすると気が遠くなりそうだった。

まだ意識があることを確認し、すぐに救急車を呼んだ。

気が動転して何がなんだかわからなかったけど、とにかく自分の力ではどうにもならないと思ったからだ。

「急いでください」

と、たどたどしい広東語で住所を告げる。

10分くらい待っただろうか・・・その間にクローゼットを開けて、下着や着替えなど、入院に必要と思われるものを手あたり次第にカバンに詰めていた。

相方が飼っていた2匹の猫の餌と水を補給して、救急車の到着を待った。

救急車が到着すると、ストレッチャーで階上までくるのかと思ったら車椅子だった。

相方は倒れていたから、車椅子には乗れないと思ったが、隊員の人の助けで何とか乗った。

救急車の中で、

「どの病院に行くんですか?」

と隊員の人に聞くと、

「クイーンメリー」

と言う。

クイーンメリー病院は、香港大学付属の大学病院で、香港では一番腕が良い医者が集まっているのだ。

香港大学の世界ランキングは東大や京大よりも上だ。

しかし政府の官立病院であるために、ものすごい数の人がウェイティングリストに名を連ねて治療の順番待ちをしている。

事実、救急車で運ばれても何時間も待たされたりするのだ。

私も後年自分がケガをしたときに「緊急手術」でクイーン・メリーへ入ったものの、3日間も飲まず食わずで待たされたことがあったから、その実情は良く知っている。

待っている間に亡くなる人も多く、シャレにならない世界なのだ。

何時間か車椅子に座って待った後、ようやく医者と面会できた。

医者と言っても若いインターンのように見えた。

「どこが一番痛いんですか?」

触診しながら診ていく医者。

肝臓であることは間違いがなかった。

だけどそれが一体なんの疾患なのかはわからない。

それを究明している途中で倒れて救急車で運ばれたからだ。

とりあえず入院の措置が取られ、私は一度相方の家へ戻って、2匹の猫たちを私のアパートへ移す手はずをしなくてはならなかった。

入院が長期に及べば、猫の世話ができなくなる。

当時、私は九龍に住んでいたし、香港島の相方のアパートまではバスやフェリーで1時間もかかる距離だったのだ。

当時のことは比較的よく覚えている。

ブログにも事の顛末を書いていたので、当時の読者(友達)から励ましのコメントが寄せられた。

相方のアパートで 2007年


入院してからも診断は遅々として進まず、一日一回あると言われるドクターの回診でも十分な時間があるわけではなく、しっかりとした病状の説明もなかった。

一体何の病気なのかすらもわからないまま、時間だけが流れた。

私は苛立っていた。

当時は折悪しく、勤めていた会社の取締役会が近づいていて、そのすべての手配と資料の翻訳を私が担当していた。

私は毎日仕事を終えたらその足で病院へ向かったが、時には残業が夜中の2時までかかることもあり、体力的にはギリギリのラインだった。

病院の面会時間は午後6時~8時の2時間のみ。

それ以外は見舞い人は入れない。

私は毎日ミニバスに乗って病院へ通い、相方と二人で院内にある Cafe de Coral(大家楽)で食事をするのが日課となっていた。

病院食はまず過ぎて食べられないと相方が言っていたが、その数年後に、私は自分も入院することとなり食事のひどさを実体験することとなる。

Cafe de Coral(大家楽)が入っていることは救いで、一階にはスタバもあったから、まともなものが食べたくなったらそこへ行っていた。

夜8時に病院を出ても、当時住んでいた九龍半島の黄埔に着くのは夜10時を回った。

途中でスーパーなどに立ち寄ればもっと遅くなった。

それからシャワーを浴びて眠りにつき、次の日は6時に起きて7時には出勤し、前の日出来なかった残業分を挽回するというようなことをしていた。

土日に掃除と洗濯と買い出しをしなくてはならなかったけど、いざ週末になると蓄積した疲労がドロのように表面化してきて、ベッドから起き上がれなくなった。

結果、掃除も洗濯もできないまま、何日も過ぎて行った。

もう限界だった。

私の家に移した二匹の猫 マオマオとムイムイ


病院へは相方の父が見舞いに来て、病状と費用のことについて家族会議が行われていた。

義弟は諸事情により蒸発中、義妹は当時はシンガポールに住んでいた。

この時まだ正式な病名が診断はされておらず、最悪の事態(肝臓癌)に備えなくてはならなかった。

もしもそういうことなら、あと数か月だ、と父は言った。

父も医者なのだ。

私は当時相方の恋人で、結婚しているわけではなかったから家族会議には参加していなかった。

どんな話し合いがされたのかはわからず、ただ「これからどうなるんだろう」という不安を抱えたまま、香港の街を一人歩く日が続いた。

夜ベッドの中でこのことを考え始めると、底なし沼にハマっていくような気分になることもあった。

そんなときに「まだ何も決まったわけじゃない」と言って励ましてくれたのが親友のサイモンだった。

病院から見た太平洋

その2へ続く


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瑪麗醫院(クイーンメリー病院) 薄扶林 その2

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プロフィール

 

1973年生まれ。

 

1993年から今までで19か国(一部地域)を訪れ、5か国での生活を経験しました。

 

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